静岡県の民謡として広く知られる「ちゃっきり節」ですが、地元古来の民謡かというと実はそうではありません。
「ちゃっきり節」の起源は昭和2年と比較的新しく、静岡電鉄が狐ヶ崎遊園地の開園を記念して、同電鉄沿線の観光や静岡県の物産を広く宣伝する為に、作家・詩人として高名な北原白秋に作詞を依頼、製作された新民謡です。

新民謡とは、江戸時代を中心に日本各地の音頭や馬子唄、舟歌、土搗唄など地域に根差した伝統的な唄から発祥した民謡とは異なり、大正時代後半から昭和にかけて地方自治体や地域企業などの依頼によって、地域興しや観光、名産、企業宣伝などを全国にPRすると同時に、土地の人も気軽に歌って踊ることで愛郷心を高めることも目的として製作された唄です。
いうなれば当時の流行歌や大衆歌謡の部類に入るものですが、その曲調も民謡調にすることで覚え易く、踊りや振り付けとセットにして製作することで意図的に流行させることを狙っています。
また、曲のタイトルも「○○音頭」など、地域名や企業名などを付けた民謡風にすることで、一層の親近感を作り、出来る限り多くの人に受け入れられるようにされています。

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ちゃっきり節は、詩人として高名な北原白秋が作詞しましたが、詩が完成に至るまでには一筋縄ではいかなかったという逸話が残されています。
昭和に入る頃には既に名が売れていた白秋に、何とか詩を作成して貰おうということで、当時の静岡電気鉄道の遊園部長だった長谷川貞一郎氏が東京まで訪問し、作詞を嘆願したといいます。しかし白秋は「民謡をつくったことがない」ということで依頼を拒み、その後長谷川氏は何度も足を運んで懇願を重ねました。

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その結果、遂に白秋は作詞を快諾し、作詞の取材の為に静岡を訪れました。
当初は静岡電気鉄道の豪勢な接待もあり、その後も白秋は当地で芸者遊びなど豪遊を続け、一向に作詞に取り掛かる気配はなかったといいます。
そのような日が過ぎる中、あるときも芸妓と酒宴に興じていた白秋は、芸妓の何気ない一言にヒントを得て、一気に作詞に取り掛かりました。
ちゃっきり節の歌詞の最後に「きゃあるが啼くから雨づらよ」との一節が、その芸妓が発した一言だと言われています。

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その後、白秋の友人である町田嘉章が作曲をし、その後、無事に発表にこぎつけることになりました。
発表当初は地元静岡県内や、東京の花柳界で唄われる程度であったいうことですが、昭和32年にこの唄を唄った市丸という歌手のヒットにより、全国に知られるようになりました。